誕生・幼少期
三田家の5人兄弟、3番目の長男として昭和36年2月3日に奈良県吉野で産湯につかり、育ちは大阪三田修一と名づけてもらいました。が、この修一と言う名前は私のおじいちゃんの名前でした!
こんな事があっていいのかどうか・・
父が役所に届けを出した名前は『修二』でした。が、役所の方が何かの手違いで『修一』と登録したみたいです。
小学校まで知らず、入学して先生から「修一君!」と呼ばれて、初めて自分の名前が『修一』であることが判明した次第です。
修二と名付けた両親も仰天しかありません。
学生時期
おじいちゃんと同じ名前になってしまった私は小学校3年生までは、内向的な性格で人見知りもぼちぼち激しく、
「この子、大丈夫か!?」と両親も不安になるぐらい静かでおとなしく、部屋の隅でプラモデルやブロック遊びに夢中になっていましたが、大人も感心するぐらいの完成度の高い模型を作っていました。
そんな私を変える出会いが・・
小学校4年生の時、担任の横山先生が、私の性格をなんと180度改造!
この素晴らしい出会いが私を変えてくれました。
横山先生はとにかく明るく、少々の悪さも笑い飛ばし、温かく子供たちを見守ってくれる先生で、よく私を笑かせてくれました。
そんな先生が大好きで、自然と私も積極的に人を楽しませることを覚え、
笑わせることがこんなに楽しいものかと味を占め、笑いの神様が降臨したかのようにそこからの私は人を楽しませることの楽しさに目覚め小学校3年までの自分からは全く考えられないほど、明るく積極的な小学生に変わっていきました。
本当に横山先生に感謝です。
また、横山先生が小学校の体操クラブを指導していたので、私はすぐにそのクラブに入り、小学校5、6年生の時には、跳び箱8段の上段で地転(ちてん)やバク転、バク中、鉄棒の大車輪などができるようになっていました。
肌が真っ黒になるまで体操クラブを楽しみ、地域の子供会では、ソフトボールチームでキャプテンを任されるくらい活発に。
その甲斐あってか中学校では、ラグビー部に入部。大阪では強豪チームで近畿圏でも強いチームの選手に!
そのままラグビーをすると思いきや、高校ではなんと剣道部に所属。
当時は弱小チームで大阪の大会で強豪校に当たると、相手チームから何秒で倒せるか、ストップウオッチで秒を計られた時はチームみんなが憤慨しましたが、相手の思惑通り全員60秒以内に倒されたほろ苦さも残るちょっぴり苦く、でも楽しい高校生活を満喫しました。
大学は、理系の航空工学部に入りましたが、授業にはほとんど出ず、アルバイトとハンググライダー部とスキーで占めた大学生活でした。
大学2年の後半になってくると勉強はそっちのけで、アルバイトとハンググライダー、
そしてスキーにのめり込み、案の定、勉強がついていけなくなっていました。そんな時に冬のアルバイト先のホテルのオーナーさんが、なんと“ペンションを1つ任せたい”とお話しを頂き大学仲間と離れるのは寂しかったのですが、苦渋の決断、大学中退の道を選んだのです!
社会人として
1981年12月長野県 心機一転、ペンションの仕事で社会人スタート!
冬と夏のシーズン中は昼夜関係なく、朝5時から夜12時頃までほとんど休みなく働きづめ。
今では考えられないようなブラック?いやいや、大変な中でも意外と苦にならず、同年代のスタッフ達と布団敷競争や皿洗い競争などゲーム感覚で仕事をし、終わってから深夜のスキーや温泉巡りを疲れ知らずで、精いっぱい楽しんでいました。
シーズンオフは、まとまった休暇をもらう約束をしていたので、
その長期休日を利用し、アメリカ、カナダ、メキシコ、インドなどを
バックパッカーとして旅行しました。
今、思うと貴重な経験をたくさん
アメリカやカナダでは人種差別を受けたこと、
プロサーファーからの無茶な提案、
危なかった誘いなどを経験。
メキシコでは意外と私みたいな者が人気者になれたこと!
インド人の友人と一緒に旅して生活習慣の違いにびっくり!
カースト制度に疑問を強く持ったこと、
エントロピーの考え方に面白いと思ったこと。
その他、韓国、ウクライナ、トルコなど様々な国を旅し、楽しみました。
中でも建物にはすごく興味を惹かれ何枚も何枚も撮影しました。
しかし・・・、そんな風来坊みたいな生活にもいよいよ終わりが迫ってきたようです。
家庭を持つ
そんなこととは無縁だと思っていたのですが、23歳の時に後輩だった妻と出会ってしまったのです(笑)。
同じ会社に新入社員として入社し、同じ寮に入っていたのもあり、たまたま時間が合うと、一緒に食堂で色々な話をしました。
よく笑い、よく気が合う人やなーと感じ、出会って4ヶ月も経たないうちにスピード結婚。
少々私が強引だったにも関わらず、ついてきてくれて、本当に感謝しています。
翌年に長男を授かり、
3年ごとに長女、次男、三男と4人の子供たちに
囲まれためちゃくちゃ楽しい家族生活を送っていました。
長男を授かってしばらくしてから、
父の体調が思わしくないと連絡が入り、
大阪の実家に戻ることになりました。
私の父は、Sハウスや私鉄関係の下請け工事会社をさせてもらっており、
もともと職人気質の強い人で現場での作業を一生懸命に取り組む姿勢には、
取引先の社員さんにも非常に買われ、仕事は絶えることがなかったみたいです。
大阪に帰ってきて、そんな父の下請けの仕事を手伝い、忙しい毎日を過ごしていたのですが・・・・
転機
1995年1月17日 阪神・淡路大地震が早朝に発生。
その時、大阪の旭区に住んでいた私の実家もかなりの揺れがあり、びっくりして飛び起き、すぐにテレビをつけましたが、状況が分からず・・・
昼過ぎにやっと取引会社から連絡が入り、神戸の鉄道会社の鷹取工場(現在はありません)にすぐに走ってほしいと依頼が入り、自分の家のことはそこそこに(雨漏りしたまま)して急遽現場に走ることになりました。
平常時は、高速道路を使うと1時間もかからないところを7時間かかっても到着するかどうか。ひどい日は10時間以上もかかることもありました。当時、被災地では水を早く出すことを優先して作業に入り、その後、電気、ガス、お風呂に入れる施設をと、順番に復旧作業に入っていきました。
被災地に入って二、三日は車中泊をして7時間以上の時間をかけ、大阪に帰りますが、そのまま休みを取らず、すぐに被災地に向かう日々を約3か月間。
その後、現地の設計事務所にデスクを借りて、2年ほど設計や現場で応急処置的な仕事や改修工事に取り組んでいました。
この時、大きなビルもかなりのダメージがあったのですが、大阪と神戸の裏道の往復での道中で見た、普通の家の被害がひどく、二階建の建物が崩れ、道を何か所も遮っていたり、火災がなかなか鎮火しなかったり、映像で流れる以上の光景を目の当たりにしたことで、建物のあり方や人の命をどう守るのか?を考えさせられ、自分の無力さや悔しさでいっぱいになったその時の気持ちを、今も思い出します。
その事が大きな原動力の一つとなっています。
私の神戸での仕事もひと段落ついた頃、父が亡くなり、この機会にどうしてもたくましい家づくりを勉強したい思いが強くなりました。そして、私以外の兄弟が父の会社を引き継ぎ、私は大阪の中堅クラスの工務店に知人の紹介で入社します。
ここから『たくましい家づくり』の勉強がスタートしました。
建築修行時代 、そして独立
在籍した工務店は年間150棟を建築する住宅会社で、社長は『最も厳しい社長』と業界では有名な方で、営業や建築のことを約10年間、鍛え上げられました。
朝から夜中まで家のことで頭がいっぱいの時期を送っていたので、反対に家庭をかなり犠牲にしていました。
その工務店では、お客様と直接プランニングや資金計画が出来るので非常に勉強させていただき、今でもその社長とは仲良くさせていただいています。
その後、センチュリー21のフランチャイズ店に創業メンバーとして参加し、不動産仲介、建売住宅販売の事を10年近く学び、楽しく仕事をさせていただいていました。
しかし、 あの地震の時の感情が沸々と蘇り、その思いを理解してくれた妻と協力してくれる人たちからの応援もあり、『たくましい家づくり』を実現したい一心で、建築会社を設立し、まずは1人でスタートさせました。
初めの2年間は下請け工事中心で、以前にお世話になっていた不動産会社さんからの仕事を頂いていたのですが、軌道に乗ってきたこともあり、下請け工事から本来、挑戦したかった家づくりを本格的に始めようと下請け工事もそこそこにして、スタートしました。
今までの経験でハウスメーカーさんの注文住宅は比較的に高額になってしまいます。また、その後の維持メンテナンス費用もかなり高くつきます。ハウスメーカーさん 独自のクローズ工法となりますのでなかなか他社がメンテしにくくまた、仮に他社がメンテしたとしてもその後にハウスメーカーさんに再度メンテを依頼してもしてくれなくなる事もあります。
20代、30代の収入では建てることは経済的に簡単ではないように思います。
そこで、『一生懸命頑張っている若い世代の人達でも建てられる、安心でたくましい、長持ちする家を提供する』ことを心に決め、建築に関する研修や良い工務店があると聞くと、東京や名古屋にある工務店さんに見学をお願いしたり、各メーカーさんに価格交渉したり、協力会社さんに私の思いを伝えて賛同していただき協力をお願いをしまくりました。
私の目指す『たくましい家づくり』は、 『断熱性能、耐震性の高い家はもちろん技術的に追及していき、そこに住んで頂くご家族の笑い声が聞こえ、楽しさ、豊かさを実感してしまう家をお客様と一緒に作りこんでいく』 そんな家を20代、30代の方に手の届くリーズナブルな価格で商品化。
ただ、小さな工務店ですので、お客様にそのことをうまくお知らせすることが出来ず、ただホームページに掲載するだけでは電話はならず・・・・・
ホームページに載せるだけでうまくいくほど甘くはありませんね!時間が経過すると共に、自分の中にかなりの不安と焦りを感じてきました。
さて、どうしたものか?
とにかく“何かしないとあかん!” と思い、
手あたり次第、思うままに今までのお客様に工務店をスタートしたことを電話や訪問でお知らせしたり、協力会社さんへ家を建てる方の紹介をお願いしまくりましたが、それでも簡単にはお客様は現れません。
そんな活動をして2ヶ月目・・・
はじめてのお客様
昔のお客様から私が独立したことを聞いて、30代のお客様M様をご紹介していただきました。
その電話をいただいた時、心が躍り、感謝でいっぱいの気持ちになった事を今でも覚えています。
ただ、紹介はいただいたのですが、まだ、プラスCホームで建築させていただけるかどうかは、ご本人と会わないと分からない状態です。
そんな中、早々にそのお客様と紹介者の方が会社までお越し下さりました。
そこで私達の目指している家は『たくましい家づくり』、そこに住んで頂くご家族みんなの笑い声が聞こえ、楽しさ豊かさを実感していただくこと、価格は誠心誠意の価格で建築させていただくことを説明。
紹介者の応援もいただき、最初のお客様とご縁が持てました。 本当に嬉しかったです。
これからのこと、今思うこと
初めてのお客様からは色々な事柄を学ばせてもらいました。その中の一つ【家を建てたから幸せになれる】ではないこと。家そのものの性能や間取り、設備、価格も大切です。ただそれだけではなく、プラス『どんな家づくりをするか』で家族の幸せが大きく違ってくるように思います。
どんな家づくりを体験すると、後々の家族の絆に大きな影響があるのか?そのお客様を通して身をもって体験させていただきました。
その経験からプラスCホームでは、お客様にとって何がいい選択なのか?どんな家づくりをしたらいいのか?
お客様に寄り添い、親身になって相談しやすいアドバイザーとして色々な提案をして行こうと決めました。
現在、2ヶ月に1度のペースで『女子会』を開催しています。
そこでは、実際に家を建てられた方、これから家を建てようと考えている方に集まっていただき、家を建てられた方はそこでの良かった点、残念だった点を教えてもらいます。
これから家を建てようと考えている方には、不安点や疑問点などを食事をしながらざっくばらんに話していただきました。そこで得た、たくさんのヒントを元に良かった点などを生かした、真心のこもった楽しく豊かな家づくりを提供していきたいと思っています。
この業界に身を置かせていただき20年以上の月日が流れましたが、その中で値引合戦をしていた多くの会社が倒産したり、規模を縮小してきた現実を見てきた私が思うところは、一時の得のために惑わされず、お客様に誠心誠意にお応えしていく、プラスCホームを信頼して選んで下さった方々と長いお付き合いを続けることが出来るのも 『会社が存在し続けることこそ』 と、考えています。
注文住宅も町の小さな工務店さんの頑張りで、手にすることも難しいことでは無くなってきています。
私達の家づくりも少しづつですが進家(シンカ)させていますが、ずっと変えてはいけないこと、
それは 『家づくりへの思い』 です。
家に対する思いは、お客様お1人お1人違うものですが、私達が提供している家は
『たくましい家づくりを通してご家族の笑い声、楽しさ、豊かさを実感してもらうこと』
その為にも、日々学び、新しい技術や知識を積み重ね、より良い家をご提供できるようスタッフ一同、面白おかしく楽しみながら精進しています。
変わらない思いと『進家(しんか)』し続ける家づくり。
プラスCホームはスタッフ全員で、これからも熱心に家づくりに取り組み、お客様の思いを一緒に形にしていく熱い想いを持った会社です。